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profile

名前:塚脇宣章(つかわき・のぶあき)
性格:基本的には温厚。
仕事:フリーランス。主にweb製作(ディレクションやデザインなど)。
趣味:サッカー観戦。ビリヤード
血液型:マイペースなB型
星座:おうし座
1973年(昭和48年) 0歳 5月19日 大阪府摂津市に生まれる。家族構成:父母姉
1974年(昭和49年) 1歳  
1975年(昭和50年) 2歳  
1976年(昭和51年) 3歳  
1977年(昭和52年) 4歳  
1978年(昭和53年) 5歳 4月、瑞光第二幼稚園に入園。のちに、正雀愛育園に転園。
このころ、母姉と梅田の阪急百貨店に買い物に行くが、迷子になる(ってか、本人は母と姉が迷子になったと思っていた)。
にも関わらず、母と姉が先に帰ったと思い、一人で自宅に帰るという幼稚園児離れした技をみせる。
(京都線・神戸線・宝塚線と3線ある阪急電車を、ちゃんと路線図を見て目的駅を選び、大人の後ろについていけば改札をくぐれること知りながらそうした記憶がハッキリとある。電車で約30分ゆられ、自宅最寄り駅に帰ってきて、母と姉の自転車を探し当てる。「あれ?」と思いつつ、大人で15分くらいの道のりを徒歩で帰宅。もちろん鍵がかかっているため、家の中には入れず、自宅前のガレージで時間をつぶす。そこへ、「まさか」と思った母が、自宅向かいの家の人にTELし、無事発見される。辺りはもう暗くなっていて、夕飯をごちそうになったなぁ。。)一方、母は探して探して大変だったらしい。。
1979年(昭和54年) 6歳  
1980年(昭和55年) 7歳 4月、摂津市立味舌東小学校(吸収合併され、現在は味舌小学校)に入学
ドラえもん」に感銘を受け、以後6年間マンガ家を目指す。
1981年(昭和56年) 8歳  
1982年(昭和57年) 9歳  
1983年(昭和58年) 10歳 キャプテン翼」を全く読んだことがないにも関わらず、周囲の影響でサッカーを始める。
その一方、マンガ家を目指していたくせに、翼くんの髪型がどうしてもおかしな楕円形にしか描けず、自分には「ドラえもん」しか描けないのか。。と、マンガ道を諦めはじめる。
またこの年の夏休みに、知人宅で遊んだファミコンに心を奪われ、発売2か月でまだ知名度の低かったファミコンを入手する。
1984年(昭和59年) 11歳 この年の文化祭で、演劇「月光仮面」を脚本・演出。当時世間を賑わせていたグリコ・森永事件を題材にした内容だった。
(翌年、テーマ的な続編として「必殺仕事人」を上演)
1985年(昭和60年) 12歳 ファミコンから始まったゲーム熱がアップし、パソコンの購入を決意。
当時、ゲームのできるパソコンで有名なMSXの上位機種MSX2が発売されるとのことで購入を目論むが、母が富士通の人と知り合いとの理由だけで、「借金させたるから、いいもん買い(なさい)」と説得され、約3倍も値段がする4096色同時に発色できることがウリの富士通のFM77AVを購入することに。
以降、「ゲームをする」から「ゲームをつくる」に熱の方向が転換していく。
小学校では「思い出係」という係を担当し、思いつきで「奈良の大仏製作」を発案。実際と同じように(?)、型をつくり、石膏を流し込み製作したいと強く先生に訴え、クラス全員で「小仏」をつくる(もちろん頭の部分だけ)。
また、担任の先生にハメられ、児童会長に立候補し、当選。しかし、“前期”の会長と違い、すべて決められたことだけをこなす“後期”の会長職に、世の中ってやつを感じる。
1986年(昭和61年) 13歳 4月、摂津市立第一中学校入学
3年間サッカーに明け暮れる。と同時に、パソコンにも明け暮れ、サッカー部の顧問から「パソコン坊や」の称号を得る。というか、バカにされる。
またこのころから、自転車で1時間かけて梅田に遊びに行くとか、1時間半かけて日本橋(電気街)に遊びに行くとかをし始める。
1987年(昭和62年) 14歳 登校拒否をたびたび行う。
このころから、マンガの影響などあり、ビリヤードをたしなみ始める。
夏休み、友人と二人でどこかに「青春18きっぷ」で出かけることを画策し、「富士山が見たい!」という理由で、普通電車を乗り継ぎ、日帰りで静岡駅へ。が、着いた静岡駅はビルばかりでどこにも富士山は見えず、滞在時間30分ほどで帰宅。
1988年(昭和63年) 15歳 この年、文化祭で映画を撮影。マンガとドラマ「男女7人夏物語」をパクりまくった内容だったが、映画の魅力にハマる。
中学校の卒業旅行にと、友人ら数人でまたもや「青春18きっぷ」を購入。片道7時間半かけて東京へ旅行する。完成直後の東京ドームがあった水道橋付近のホテルに泊まる。東京タワーに行ったことよりも、当時よく聴いていた「オールナイトニッポン」の「ニッポン放送」(有楽町)の外観を見たことの方が妙に感慨深かった。
1989年
(昭和64年/平成元年)
16歳 4月、大阪府立春日丘高等学校普通科入学
この年の文化祭でも映画を製作。
また、夏休みに知人から伝え聞いた「テトリス」を、やったこともないのにパソコンで製作。しかし簡単な内容だったため、友人からは不評。
同じく夏休みに、「海行きたいなぁ」「そやなぁ」「お金ないし自転車で行く?」「そやなぁ」「じゃ、明日行こか?」「ええよ」と、片道7時間以上かけて自転車で自宅から和歌山へ海水浴に行く。その夜、公園で野宿し、真夏の和歌山でも寒くて凍死しそうな目にあい、自動販売機を探しまくって100円の缶コーヒーに命を救われる。その後、日の出前から海水浴を始め、すぐに海岸で熟睡。潮が満ちてきて波が体に触れたことで目が覚め、全身が軽い火傷なぐらい日焼けして大変な目にあう。それにしても僕の単純な海水浴計画に、即答した友人に今でも驚いている。
1990年(平成2年) 17歳 マクドナルドでアルバイトを始め、貯まったお金で、VHSフルカセットの入るビデオカメラを購入。が、結局、遊びに時間を費やしほとんど使うことはなかった。。。
1991年(平成3年) 18歳 まったくといっていいほど、受験勉強をせず、日本大学芸術学部映画学科を受験するも、当然不合格。
1992年(平成4年) 19歳 4月、河合塾入塾。が、秋以降、ほとんど行かず、自宅で勉強。
1993年(平成5年) 20歳 4月、関西学院大学文学部美学科入学
入学する前から決めていた「全関学自主映画製作上映委員会(全関映)」というサークルに入会。以降、8ミリフィルムの魅力に魅せられる。
1994年(平成6年) 21歳 映画製作に邁進。
1995年(平成7年) 22歳 1月、阪神大震災を体験
9月末~10月初旬、自動車に寝泊まりしながら北海道を一周する。
1996年(平成8年) 23歳 就職活動の失敗から大学を1年間休学。
9月、フリーターしか雇っていなかった映画館「テアトル梅田」で、「じゃ、大学辞めたら雇ってもらえますか?」と詰め寄りアルバイトをさせてもらう(後で聞いた話では、ちょうど学生アルバイトを募集しようか検討し始めていた時期だったらしい)。
1997年(平成9年) 24歳 2度目の就職活動も失敗。。。
1998年(平成10年) 25歳 1月、知人の映画配給会社の方から「編集に興味ある?」とのお誘いを受け、てっきり映画の予告編の編集でもさせてもらえるのかと思い快諾すると、雑誌「ぴあ」の編集部だと発覚。「モノつくりは嫌いじゃないし、せっかくの機会だから、ま、いっか」ということで、大学に籍を置きながら「ぴあ関西版」編集部で映画ページの担当になる。そのため、大学の卒業式からぴあに直行して仕事するという貴重な出来事を経験。
1999年(平成11年) 26歳 ぴあ勤務
2000年(平成12年) 27歳 ぴあ勤務
2001年(平成13年) 28歳 6月、編集者に向いてないと悟り、ぴあ退社。
7~9月、時間ができたをいいことに、大阪から京都⇒日本海経由で長崎に行ったり、大阪から北陸⇒福島⇒仙台⇒青森⇒函館⇒稚内と、学生時代同様に高速道路を使わずに自動車に寝泊まりしながら旅をする。
稚内から帰宅一週間後に沖縄に飛行機で行き、気温の落差が15度くらいあることに日本の広さを感じる。ちなみに、この時のフライトが人生初の飛行機搭乗。直前に起こった9.11テロによって、ものものしい空港を経験。
2002年(平成14年) 29歳 ぷ~太郎
このころに、一時的にぴあフィルムフェスティバルのwebサイトを手掛ける。
2003年(平成15年) 30歳 ぴあフィルムフェスティバルのディレクターに、「東京来て仕事しない?」と誘われ、5月末日、東京都千代田区へ引っ越し。靖国神社から徒歩1分という都会のド真ん中のマンションに住む。到着した日は、なんと関東に台風が直撃の暴風雨。そんな中、とりあえずは有楽町のビックカメラでテレビや冷蔵庫、洗濯機を注文。そして敷布団、掛け布団など一式を買い込みびしょ濡れになりながらタクシーで帰宅。その深夜、台風一過をいいことに、自転車で丸の内プラゼール(だったはず)に『マトリックス リローデッド』の先行オールナイトを観に行く。
2004年(平成16年) 31歳 ぴあフィルムフェスティバル事務局に従事。
2005年(平成17年) 32歳 8月、映画情報サイト「eiga.com」の運営や、主に映画のwebサイトを製作するデジタルプラス(現・株式会社ガイエ)に転職。「ダ・ヴィンチ・コード」や「ホテル・ルワンダ」などメジャーな映画のweb製作に関わる貴重な経験をさせてもらう。そのくせ、半年ちょいで退社してしまい、申し訳なく思っております。。。
2006年(平成18年) 33歳 6月、フリーのwebディレクター・webデザイナーとして活動を始める。
と同時に、埼玉県戸田市に引っ越し、結婚。
10月、一児の父になる。
2007年(平成19年) 34歳 web製作に邁進。
2008年(平成20年) 35歳 web製作に邁進。
2009年(平成21年) 36歳 6月、2人目の子供が誕生。一男一女の父になる。
初めて歯の神経を抜く。。
2010年(平成22年) 37歳 昨年の歯問題が発展し、何かと歯医者に通い続ける。。。
またこの年の末、一軒家を建設することが決定。その後1年以上、建築家さんの事務所へほぼ2週間に1度通い続けることになる。
2011年(平成23年) 38歳 3月、阪神大震災に続き、東日本大震災も遭遇。阪神の時と同様、部屋の中がぐっちゃぐっちゃに散乱した程度で、大きな被害はなく、“遭遇”という感じ。
またこの年、原因不明の腹痛が発生。エコー検査やCTスキャン、内視鏡検査、大腸検査など、初体験づくし!結局、健康体であることが判明するも、「やっぱ定期健診って大事よね」と思わされる。
2012年(平成24年) 39歳 11月、初の人間ドックへ。デブなこと以外はいたって健康らしい。脳ドックのゲーム(?)があまり得点とれなかったのがくやしいのと、ついでなので全種類検査を!と、採血をし過ぎてフラフラになり結構大変な目にあう。
12月、一昨年から計画に入った一軒家がようやく完成。生涯3度目にして、おそらく最後の引っ越し。
2013年(平成25年) 40歳 メタボ検診にひっかかり、市からダイエットを勧められたことから、時折ジョギングを開始。そのおかげか広がる一方だった体型が若干スリムに。
長男が小学校入学。長女が幼稚園に入園。
2014年(平成26年) 41歳 長男が以前からやっていたサッカースクールに加え、スポーツ少年団に入団。たびたびサッカーの練習に付き合ったり、試合を応援に行ったり、サッカーだらけの日々に。
2015年(平成27年) 42歳 昨年に続き、サッカー4級審判員の資格を取得したり、サッカーだらけの日々!かと思ったら一変。5月にシュート練習のボールを何気にキャッチしたところ、右手人差し指をマレット骨折!爪の根元から出血があったのでただの突き指ではないな、とは思っていたもののまさか骨折(人生初!)とは!仕事への影響も懸念してましたが、特に大きな影響もなく乗り切る。
隣の義母宅の10年以上生きていた犬も老衰し、義母本人も腰の骨を骨折して入院するなど、後厄の力を侮ってお祓いに行かなかった報いを受けたかのようないろんなことがあった年でした。。
2016年(平成28年) 43歳 1月、新年早々新車を購入!これまでずっとマニュアル車でしたが、初めてのオートマチックトランスミッション!しかもミニバン!
4月、長女が小学校入学。
2017年(平成29年) 44歳 昨年末の妻の手術から始まり、修理に出したパソコンが別のところを壊されて返却されたり、娘が不調を訴え(迷走神経反射)救急車で搬送されたり、妻が購入したばかりのiphoneを落とし画面が割れたり、とにかくいろいろあった上半期。
さらに10年ぶりに会社勤めを始めるも、いろいろ諸事情が重なり半年で退職するなど、下半期もまぁいろいろと。。。ホント、とにかくいろいろあった年でした。。。
またサッカー観戦が続いた年でもありました。「IAIスタジアム」「等々力競技場」「NACK5スタジアム」「さいたまスタジアム」「西京極陸上競技場」などJ1&J2のリーグ戦に天皇杯、ルヴァンカップ決勝戦などいろいろ行きました。 息子が朝日新聞の「ジュニアプレス」で受賞し、その特典で豪華なビューボックスで観戦したり、仕事絡みでバックヤードに入り、記者会見にも立ち会うなど、貴重な経験もできました。
2018年(平成30年) 45歳 粛々と過ごした年でした。でも地味だけど大きな変革もありました。
また、春~秋にかけて行われた息子のサッカー少年団チームが全国大会の地区予選を勝ち上がり、県大会に出場。初戦をまさかの全国制覇経験のある超強豪チームと当たり敗戦し、少年団サッカー生活が終了。
ちなみに、何の因果か、その対戦相手とは、次の埼玉県の1位を決める大会でもまさかの再戦し、またも敗戦。その後、そのチームは準優勝しておりました。。。
2019年(平成31年/令和元年) 46歳 1月、9畳あった子供部屋を、兄と妹の2部屋にリフォーム。
4月、長男が中学校入学。
仕事のやり方が大きく変わった激動の年でした。
2020年(令和2年) 47歳 妻の手術や新型コロナの影響で、家族全員がずっと自宅にいるという上半期。特に何もない粛々とした下半期。
2021年(令和3年) 48歳 高校受験と中学受験。家族が受験に明け暮れる1年。
2022年(令和4年) 49歳 無事に受験戦争も終戦を迎え、自分自身の新しいことにいろいろチャレンジしようと決心するも、仕事に忙殺されて何もできずに終わった1年。
2023年(令和5年) 50歳 年明け早々から父の手術などなどで、1か月ほどの間に、埼玉⇔大阪を5往復する波乱の幕開け。
その後もたびたび父関連で大阪日帰りを繰り返し、さらに家族でUSJに行ったり娘と大阪旅行したりと、とにかく大阪に行き倒した1年でした。
2024年(令和6年) 51歳  
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